1904年の日露戦争と終戦時に結ばれたポーツマス条約の影響について解説します。この記事を読むことで以下のことが説明できるようになっているはずです。
1900年頃の日本とロシアの思惑
北清事変に始まる日露戦争開戦までの流れ
ポーツマス条約が日本に与えた影響
簡単に結論を書きます。
日本は韓国、ロシアは満州への勢力拡大を目指していた。中国分割への反発から北清事変が起こると、その鎮圧を目的として列強諸国は合同で派兵した。反乱鎮圧後も満州に居座ったロシア軍に対して主戦論の高まりを受けて日露開戦に踏み切った。ポーツマス条約の締結により韓国支配が進んだ。
今読んでも分からない部分もあるかもしれません。この記事を読み終わるころには上の結論を理解し、より深い内容まで説明できるようになっているはずです。
日本は韓国を保護国にしたい
日本がいくら国力を増強しても隣の韓国が列強のものになってしまうと大変です。すぐに日本に攻め込むことができてしまいます。そこで日本は韓国に開国して近代化を進めることを促してきましたが思わしい結果は得られませんでした。
さらにもう一歩踏み込んで直接的に韓国の軍事力を高めることを考えます。政治方針に口出ししたり外交権を取り上げて他国との条約を結べないようにするのです。これを保護国化といいます。
ロシアは満州が欲しい
極寒のロシアにとってウラジオストクという都市が重要でした。満州のすぐ東の海沿いにあるこの街には1年中使える港(=不凍港)がありシベリア鉄道の終点でもあります。ここの安全確保のために満州進出は必須。
下関条約で日本が満州の一部である遼東半島を得るとロシアはドイツ、フランスとともに返還を要求します。3つの大国に要求されては拒否できません。日本は遼東半島を返還。その後の中国分割でロシアは旅順・大連という遼東半島にある都市を租借します。このようにロシアは満州獲得を強く望んでいました。
中国分割に反発して北清事変が起こる
日清戦争で案外弱いことがばれてしまった清はヨーロッパ諸国に狙われます。清は下関条約での取り決めにより日本に多額の賠償金を支払わなければいけません。ヨーロッパ諸国は清にお金を貸しつけ、その見返りとしていい土地を借ります。これが中国分割です。
こうした列強の侵略に対して中国では反対運動が広がります。義和団という武装集団が「扶清滅洋」を掲げて暴れます。「扶清滅洋」:清を扶けて西洋を滅ぼそうという意味です。この反乱のことを北清事変や義和団事件といいます。もちろん列強諸国は黙っていません。日本やロシアを中心として8か国が合同で出兵。反乱を鎮圧して北京議定書が調印されます。これにより列強諸国は賠償金と軍隊の北京駐留権を得ました。
ロシアは北清事変をきっかけに満州を占領する
かねてより満州を欲しがっていたロシアは北清事変鎮圧後も帰国しません。そのまま満州を軍事占領します。そうすると日本・イギリス・アメリカはロシアを警戒します。結果的に日本とイギリスを近づけることになるんですね。
日英同盟を背景にロシアに撤兵を要求する
北清事変をきっかけとして日本とイギリスは同盟を結ぶことになります。1902年の日英同盟です。当時の最強国と言っても過言ではないイギリスと同盟を結んだのです。強力な味方を得た上でロシアと交渉します。日本がロシアの満州での権利を認める代わりにロシアは日本の韓国での権利を認めるよう言います(満韓交換)が決裂。これを受けて国内では主戦論が盛り上がりをみせ1904年に日露開戦となります。
できるだけ有利な状況でポーツマス条約を結ぶ
日露戦争が始まると日本は中立を表明していたはずの韓国を攻めます。日韓議定書を結ばせて軍事行動を自由に行えるようにし、第1次日韓協約で日本が推薦する外交・財政顧問を韓国政府に置くようにします。ロシアと戦いながら韓国への支配力を強めていったのです。
イギリス・アメリカからの借金と国内の増税で多額の戦費を調達した日本ですが、強国ロシアを屈服させるまでには至りません。やがて戦費は底を尽き戦争を続けることが難しくなります。一方のロシアも国内の反乱が相次ぎ、その鎮圧が必要になります。そんな中、日本海で両国の艦隊が激突します。
当時のロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊がヨーロッパ側を回り込んで、ようやくたどり着いた日本海。ここを制圧して一気に戦局を有利に進めようと考えていたでしょう。しかしこの日本海海戦で日本側が奇跡的な勝利をおさめます。勝利後にすかさず講和をすすめることで、できるだけ有利な条件を引き出そうとします。
ポーツマス条約で韓国支配が進む
アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介でポーツマス条約が結ばれます。日本側の全権は小村寿太郎、ロシア側はウィッテです。
韓国支配が進む
ポーツマス条約でロシアに韓国支配を認めてもらうと、アメリカ・イギリスとも同様の協定を結び韓国支配を認めてもらいます。
- アメリカ…桂・タフト協定:日本の韓国支配を認める代わりにアメリカのフィリピン支配を承認
- イギリス…第2次日英同盟:日本の韓国支配を認める代わりにイギリスのインド支配を承認
これらの承認を背景として日本は韓国と第2次日韓協約を締結。外交権を奪って保護国とします。さらに第3次日韓協約では内政権を奪うとともに韓国軍隊を解散させます。そして韓国併合へとつながっていくのです。
- 1904年 日韓議定書…韓国内での軍事行動を自由化
- 1904年 第1次日韓協約…日本が推薦する財政・外交顧問を置く
- 1905年 第2次日韓協約…外交権を奪って保護国化・韓国統監府設置、初代統監は伊藤博文
- 1907年 第3次日韓協約…韓国軍隊解散・内政権を奪う
- 1910年 韓国併合…朝鮮総督府設置、初代朝鮮総督は寺内正毅
南満州鉄道株式会社が設立される
ロシアから南満州の権益を譲渡された日本は南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立し利権を強めます。満鉄は長春以南の鉄道、撫順炭鉱、鞍山製鉄所などを経営。さらに旅順・大連周辺を関東州とし、関東州や満鉄の保護・監督のために関東都督府を設置します。
賠償金を得られず日比谷焼打ち事件が発生する
増税に耐えてきた国民にとって賠償金を得られなかったことは大きな不満でした。日比谷公園で講和反対集会が開かれると暴動に発展。第1次桂太郎内閣は戒厳令を布告し、軍隊を出動させて暴動を鎮圧しました。
まとめ
日本は韓国、ロシアは満州への勢力拡大を目指していた。中国分割への反発から北清事変が起こると、その鎮圧を目的として列強諸国は合同で派兵した。反乱鎮圧後も満州に居座ったロシア軍に対して主戦論の高まりを受けて日露開戦に踏み切った。ポーツマス条約の締結により韓国支配が進んだ。
冒頭で述べたものと同じです。記事を読むことで理解が深まったと思います。「日露戦争は1904年に起きた日本とロシアの戦争」という程度の理解では不十分。それまでの経緯やその後の影響を知らなければ意味がありません。
一読しただけでは忘れてしまうと思うので繰り返し読み返してください。要点だけを見直せるように一枚の画像にまとめたものを作りました。何度も眺めてみたり、ところどころ隠して覚えているかをチェックするのに使ってみてください。
例題
中国分割について述べた文として正しいのはどれか、次の①~④の選択肢からひとつ選べ。
①ドイツは遼東半島の旅順・大連を租借した。
②ロシアは山東半島の膠州湾を租借した。
③アメリカは九竜半島・威海衛を租借した。
④フランスは広州湾を租借した。
ポーツマス条約に関する内容として誤っているものはどれか、次の①~④の選択肢からひとつ選べ。
①ロシアは旅順・大連の租借権を日本に譲渡する。
②この条約はアメリカ大統領の斡旋により結ばれた。
③日本側全権は伊藤博文である。
④ロシアは日本の韓国に対する保護権を認める。
コメント